(聞き手)
震災後、震災がらみで苦労された事など、
区長の立場として、何かありましたか。
(江口様)
町内会という自治組織をまとめていく大変さを改めて思いしらされています。町内会への加入が減ってきています。
町内会費を納めない方もいらっしゃいますので、今後納めない方が多くなる事が当たり前の時代が来るのではないかと心配しています。
時代の流れだと思いますが、きちんと納めていただきたいと思っています。今は町内の役員を進んで引き受ける人はいません。無理やり押し付けて行うような状態になっていくことが心配です。
意見を言う人や、人の面倒を見る人は少なくなっていると思います。いないという事ではないと思いますが、役員のなり手を見つけるのは大変です。
以前、防犯関係のお仕事に80歳まで携わっていた方が、誰も後任になる人がいなくて困っていると嘆いていました。
次の人に引き継いでもらう方を決めるのは大変です。一年も続かず辞められる方もいます。
また、
区長は、町内会長という顔もあり、一人で何役もこなさなくてはなりません。
桜木地区の防犯対策なども行っています。
私は昔から、会社でも、単独の仕事をしていました。ですから、1人で作業するのは苦痛ではありませんし、やらなくてはいけないことはしっかりとやります。
若い時は夜勤もあり大変でしたが、それが、今の支えになっているのかもしれません。
(聞き手)
江口さんが経験された震災のお話をお聞かせください。
(江口様)
昭和35年のチリ地震の時は社会人1年生でした。
早朝、仕事をしていた時に、塩釜港道路上に船が乗り上げたという話を聞きました。
当時は24時間勤務をしていた頃です。
今回の地震の直後、多賀城駅前を通り自宅へ戻りました。
自宅前は川ですので、川の様子を見てみましたが何も変化がありませんでした。
そして、妻から、私の姉が住んでいる実家が心配だから、様子を見に行ってほしいと言われ、車を置いて自転車で向かう事にしたのです。
実家へ向かって5分ほど経った頃に、たくさんのクラクション音が聞こえて来ました。
道路からだと土手が邪魔で川の状態などが見えなかったので、笠神新橋まで行くと、橋の下まで水が上がって来ていました。
八幡方面には行けなかったので、仙塩病院の方へ回ったところで、後ろから水が音を立てて迫って来ました。
病院の後ろ付近に堀があったのですが、そこまで水が勢いよく流れて来ました。その事は覚えています。
大声を上げて、病院の裏まで走って行った時に、子どもを連れた親子に遭遇しました。
私が大声を上げている姿を見て驚いたと思います。
その後すぐ、道路に水が上がったのではないでしょうか。
そして、病院の階段の踊り場へ上がり、そこで一晩、夜を明かす事になったのです。
翌朝7時ごろに仙塩病院を出て、笠神新橋方面に向かいました。
あの時には仙塩病院さんには大変お世話になったので、「ありがとうございました」と、この場をお借りしてお伝えしたいです。